昨年夏に母親からハードカバー版を借りていながら、読めども読めども面白くならずに読み進められなかった『ダ・ヴィンチ・コード』を映画で見てきました。
読んで見るか、見て読むか。読書好きの映画ファンなら誰もが悩むところだと思いますが、今回は読めなかったので先に見ることにした、というわけです。
ストーリーをかんたんにまとめると…
ルーブル美術館で見つかった変死体の傍らに残されたダイイングメッセージのせいでフランス司法警察に追われる身となったラングドン教授と暗号解読官ソフィー。ダイイングメッセージとソフィーの出自の秘密はダ・ヴィンチの絵にあるという…ってな感じ。
ハードカバー上下巻の非常に濃い内容を150分に詰め込んでいるので、宗教的意義の説明が端折られていたり、設定や場面展開が変更されていたりします。
小説とまったく同じものを期待するとダメの烙印を押されてしまいそうですが、小説がもともと持っているジェットコースター的な展開をうまく娯楽映画に仕上げていてよかったと思います。わたしは楽しめました。
まだ小説を読んでいない人は映画を見てから、が結構オススメだと思います。人物関係とかシーンの情景とかが映画のほうがわかりやすいので、映画をみて興味を持ったところを小説で補完する、ということができるからです。というわけで、今つるつると読んでたりします(´ー`)
ソフィー役のオドレイ=トゥトゥがかわいいので、それだけでも見る価値あり!(誰かなぁと思ったらアメリの女優さんですね)
以下、ネタバレします。
うむむ、と思ったのは二点。場面展開について、とストーリーについてです。
サスペンス的な描かれ方をしているので、カメラワークとかにも工夫がされているのですが、意図的に犯人の姿が見えないような取り方をされている後にあっさり犯人が分かってしまう場面がいくつかありました。
ラングドンが暗号の解読に取り組む場面では時間がないからでしょうが、展開が速すぎて視聴者はとてもじゃないけど、ラングドンになりきって解読に取り組むどころではありませんでした。
考えさせたいのか、させたくないのか、どっちやねんヽ(`Д´)ノ
もう一つどっちやねん!は、小説の冒頭に真実、だと書いてあるにもかかわらず、エンドロールの最後に出てきた「人物・団体等はフィクションです」の字幕。わざわざ日本語にせんでもええっちゅーにヽ(`Д´)ノ
結局、芸術作品や文書、儀式に関する記述は事実で、ダ・ヴィンチの絵をどう解釈したかがフィクションってところなんでしょう。ヨハネ=パウロ二世とオプス・デイの癒着はどこまで真実かきになるところではあります。
次に、ストーリーについて。これは映画に対してというより、映画に反応した教会組織に対して言いたいのだけど。
そもそもキリスト教のことって日本ではあまり馴染みがないですよね。幼い頃カトリックの幼稚園に通っていたのですが、イエスと一緒にマリア(イエスのお母さんのほうね。映画に出てくるマグダラのマリアではなく)も崇拝みたいな感じで、今思うとあれは女神崇拝(異教であり、キリスト教が排斥した)とちゃうんかいと言いたいくらいの、まぁぼんやりキリスト教でした。
この映画はかなり物議を醸したようで、あるキリスト教団体はこの映画の中核をなしている説は真実ではないというボイコットキャンペーンまでしているそうですが、そうまでして隠したい事実って一体何なんでしょうね。
- 「イエスに子供がいたこと」?
- 「異教を弾圧して大量の死者を出したこと」?
- 「罪深い女と呼ばれるマグダラのマリアと結婚したこと」?
- 「異教を弾圧しながら、組織の中でひっそりと異教の儀式を内在させていたこと」?
神に祭り上げられるほどの人気者なら、奥さんや子供がいても別におかしくないし、娼婦(罪深い女の意味)を妻にするくらい心の広い人なら、あの愛の教えも納得できるなぁと思うのだけど、協会組織はこんなことがイエスの権威を貶めると考えているのでしょうか?
“映画『ダ・ヴィンチ・コード』” への4件のフィードバック
宗教関係者に論理的思考を求めてはいけません。(と、爆弾を投げてみるテスト)
極論を言えば宗教や信心なんてものは「信じる」か「信じない」か、「善」か「悪」かの二元論にしかならないし、個人の主観という要素が大半でしょ。
結局、理論じゃなく感性なんだよ。
昔は宗教とは学問と同義でもあったはずなのにね。
宗教関係者を相手にしてなにか疑問があっても「あぁ、この人はこういう人なんだな」と思ってそれ以上時間と労力を費やして対応すことを止めたほうが、遥かに建設的だと思うよ。
モチロン全ての人がそうだとは言わないけどさ。
ちなみにウチの実家は浄土真宗だけど、全然教義なんて知らないし、ただの『地方の風習』と同じにしか思ってません。
こんな日本の宗教観、オイラは嫌いじゃないですw
いや、価値観が違うのは百も承知なので、自分の価値観をもって宗教関係者を説得しようとは全く思わないのですが、それでもって不利益を蒙っている人がいるのは嘆かわしいなぁと思うわけです。
自分の信じるものが否定されたら辛いのは、宗教に限ったことじゃないしね。
日本は、自分たちの都合や環境に合わせて、エッセンスを吸収するのが得意なので、それが宗教にも現れてるのかなと。そうやって考えると、12月だけに発生する謎のクリスマス教の体たらくも納得できるというものです(´ー`)
「マリア崇拝」のキーワードでなぜか「アミバさまが見てる」を連想してしまう私は世紀末救世主伝説ですかそーですか。
というのは半分冗談だけど半分本気で、日本の得意なことに「現実と虚構をバランスよく使い分ける」ってのもあると思います。ドラゴンから間一髪で逃げるハリー・ポッターに熱狂しても、フィクションだとわかっているから箒にまたがって2階から飛び降りる子供は普通いない、という程度の意味だけど。
しかしこれがキリスト教会(とくにキリスト教原理主義な人)の大人から見ると「子供たちを魔術やオカルティズムに誘うなんて悪魔の所業に違いない」ということになるらしい(^▽^;)。自分の絶対唯一の価値基準ですべてを測ろうとするから、別な価値基準な人にはワケわからないというか笑いを誘うというか。
日本のアニメが欧米で受けている要因のひとつに、キリスト教的価値観ではタブーとされている事柄(セクシャルな表現とか)をあっさり、自然に描いていることが「こーゆー見方もあったのか!」と驚きをもって受け入れられているのではないか?ってのを最近どこかで読んだけど、もしそれがホントなら日本って潜在的に彼らの次のターゲットなのかも?
「悪魔の所業に違いない」で思い出したのが悪魔が乗り移ったせいで幼女を手にかけたとか言ってた外国人の容疑者のこと。
キリスト教原理主義の下ではまじになって悪魔の存在を認定したりするから怖いけど、さすがに日本じゃ歩が悪そうだなーと。ちゃんとした判決が出ることを祈ります。
キリスト教的価値観ではタブーとされている事柄って何だろ(´∀`)